「ある日、その時」(37) 2014年10月1日ー  

<掲載内容>

435.すべては「キッチュ」 436.タナトスの増殖と「自爆」 437.中村修二教授(本年度ノーベル賞受賞)の「怒り」 438.広告の「FIRE」に思わず失笑 439.逆に真あり さかしまにあからさまなる現(うつつ)440.怖ろしき「リニア新幹線計画」 441.「巨大噴火のおそれ0.25%」という「恐れ」442.「一億総白痴化」推進委員・K何某の曰く

                                                     (転載・複製厳禁)



442.「一億総白痴化」推進委員・K何某の曰く


 馬鹿番組で稼ぎながら、一方で映画を作る。そのこと自体はさしたる問題でもなく、そのエネルギーには敬意を表したいくらいであるが、その言動には常に何とも胡散臭いものが残る。努力のかいあって映画もその「斬新」な「稚拙さ」が買われて賞も取ったが、今度はいつのまにか大御所気取りで相も変わらない「毒舌らしきもの」を吐く。「毒舌」は力のある者に向かって放って初めてその本来の意味が際立つがこの御仁の毒舌の対象は常に自分にとっては痛くも痒くもない「熊さん八さん」ばかりである。要するに弱者に向かって毒突ているのである。彼のような存在が日本の愚かしい文化傾向に拍車をかけているのであるが、もはや断ち切ろうにも断ち切れないサイクルができ上がってしまっている。そのような流れの一つの象徴にもなっているのである。実際に原発推進の広告塔にもなっていたということは周知の事実で、大衆迎合路線で実質的には大衆を裏切っていくというパターンは、目的のためなら手段を選ばないという戦後与党の常套戦略に絡め取られつつやがては自らもミイラになっていくのである。すでにウォーキングミイラになっていても本人は気付いていない、もしくは気付いていても手の施しようがないというのはこの御仁だけではないが、このパターンの当然の帰着点である。

  最近、この御仁は「宮崎駿なんて大嫌い」と言っていたらしいが、そもそもがそれでどうしたという程度の話である。察するに、反原発派、改憲反対派である宮崎が気に入らないのであろう。またぞろ、その筋から金が流れているのかと思わせるような発言でもある。彼の舌鋒は毒舌でも何でもない、よく聞いていると小心な走狗の虚勢、戯言の類ではないかと思われる。何はともあれ80歳過ぎていそいそと映画作りをしているゴダールなどの映画人がいる国や、大中小問わず1ー3か月公演が普通という欧米の演劇事情がもたらす「無形のもの」は計り知れなく大きい。そして、その差はやはり歴然としているのである。すべてにおいて問題意識の希薄な単なるタレント並みの「映画人」と「演劇人」ばかりではできるものも知れているだろう。何をやってもその場かぎりの打ち上げ花火、後は野となれ山となれに等しい継続、維持、問われているのはもっと根本的なことなのである。

 しかし今や、「アイデア」程度のものすなわち「カンフル剤」でしか生き延びられない状態になっているのかもしれない。

                                           2014 10/26


441.「巨大噴火のおそれ0.25%」という「恐れ」


 今後100年で巨大噴火が起こり得る確率が0.25%というのが発表されていたが、これが確率の怖さでもある。100年で1%未満、この数値でもし多くの者が巨大噴火に対する不安をいくらかでも払拭できたとするなら、それはあまりにもオメデタイ話である。確率というのは時間の特定は不可能で明日起きても0.25%ということなのである。そこを間違えるととんでもない錯覚を起こす「根拠のある」データということになる。しかし、地震大国で0.25%という数値にどれだけの意味があるのかと思う。人間ごときの「計算」で辛うじて照合できるのは大自然の裾の綻び程度である。

                                             2014 10/22

 金に目がくらんだ方々、巨大噴火を「なめたらいかんぜよ!」、そこに原発である。もはや戻るところはない。鹿児島最期の日とならないことを祈る。

                                                                                                                       11/2     


440.怖ろしき「リニア新幹線計画」


 この地震大国で原発もさることながら活断層を貫く地下トンネルがあちこちにあるリニア新幹線にまた途方もない税金が使われようとしている。専門家に聞くまでもなく、それは無謀な愚行である。宇宙規模のエネルギー活動に対してまったく防ぐ手立てもないまま後先も考えずにただ金に動かされて作り出そうとしているのがこのリニア新幹線である。たとえ開業したにせよ何が起こっても不思議ではない。そして、その消費電力は従来の新幹線に比べて3倍もかかり、当然のごとく原発稼働が必要となってくるという段取りである。原発を欠くことのできないものとするためのリニア新幹線の登場といってもよいであろう。それ以前にそもそも開通するかどうかも不明な危険すぎる難工事でまた多くの作業員が死ぬのは目に見えている。この工事が今までにない桁外れな「戦場」になることは専門筋ではなくとも充分わかる。これは、360度の視座をフル活動させても「是」とする要因は現在、未来のどこにも見つからず、絵に描いた様な木偶が権力を握ればかくあるという近代史上にもあったことと同様の、現代史上の愚かしい自滅への前進、致命的「退歩」の一事例である。すでに経済的にも「採算は取れない」、「絶対にペイしない」(JR東海前社長)などと言われていることでもあるが、問題はそれだけではない。少なくとも私は万が一開業してもこのリニア新「棺」線には決して乗らないし、他人にも勧めない。そうでなくとも反原発、脱原発を考えている人々は乗るまい。それは文明の利器を恐れる、恐れないなどというレベルの問題ではない。分かり切っている納得できない愚か
しい行為の加速に加担したくないからである。

                                                     2014 10/17

                                                                                                                               10/18 一部加筆   


439.逆に真あり さかしまにあからさまなる現(うつつ)


 これ程までに世の中に嘘がまかり通ってくると「詐欺師」との遭遇戦を常に余儀なくされる。そのせいか世人も身近にいる名もなき詐欺師には厳しくなってきたが、それでも相も変わらず「有名な」詐欺師には何度でもそれこそ嘘のように騙されている。最近では以前のように「テレビで言っていた」、「新聞に書いてあった」などとその内容を鵜呑みにするものは少なくなってきたように思われるが、まだまだ、その「選択された」情報、クローズアップの仕方についての吟味は極めて甘い。西欧では、ニュースキャスターの表情一つ、わずかな言葉の変化でその内容の「嘘」を見抜く子供がいるくらいであるから、それに比べれば日本はどこを見ても「鴨葱」音頭に調子を合わせる者ばかりで騙す方はさぞかし楽なことであろう。

 「やる」は「やらない」、「やっている」は「やっていない」、「考える」は「考えていない」、「安全」は「危険」、「上昇傾向」は「下降」、「善処する」は「無視」、「専門用語、比喩、形容詞、形容動詞の多用」は「ごまかし、めくらまし」と見るべきで、民主主義は「人を信用する」ことではない、言動の限りないチェックである。したがって、吟味を怠り、易きに付く者が多ければ多い程すぐに手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

 さかしまになること自体疲れるが、時にはそのくらいのことしないと現実はほんとうには見えてこない。

 

 「アベノミクス」なるもの、内容的には「アベコベミクス」といった方が適切で,実のところThe spell economy(呪術経済)と変わるところはあるまい。おそらく三本の矢は藁人形にでも刺さるのであろう。

                                                 2014 10/16

 


438.広告の「FIRE」に思わず失笑


 先日、電車の中にある広告に目が留まった。全体の構成、図柄から「FIRE」は炎を意味する熱情という程の意味で遣われているのであろうが中央に置かれた「FIRE」の文字の書体、大きさからつい解雇という意味の「くび」を連想してしまった。実際、「FIRE」」という言葉は「くび」という意味で日常的に頻繁に遣われている。あの広告を見た英語圏の外国人も思わず苦笑したのではないかと思われるが、私が笑えたのはやはり今の社会状況とも関係している。そして、もしあの広告の「FIRE」が「くび」という意味ならなかなかインパクトのある広告であると思われたがそうではあるまい。それでは広告にならない。確か大手のビール会社の広告であったと思うが炎という意味の「FIRE」の文字を入れたのがかえって全体を安っぽくしているように思われた。それとも普段からリストラが頭から離れず、つい本心が現れてしまったのだろうか。ともかくも「FIRE」を炎としか読み取れない者には問題ない広告である。

 

                                                 2014 10/11


437.中村修二教授(本年度ノーベル賞受賞)の「怒り」


  中村教授の「怒り」は、総じて日本の「文化的営為」に対する姿勢そのものを見事に言い当てている。しかし、すぐに結果が出ない、金につながらないものはすべて「無駄飯食い」扱い、これで一体何が得られるというのか。それでは研究成果は得られないどころか実質的には研究そのものを、「文化的営為」そのものを否定していることにもなる。以前、私は日本では「自由に研究すること」はできなから海外に出た方が賢明であると言ったことがあるが、中村教授は身をもってそのことを実証してくれた。中村教授のような人たちを「無駄飯食い」扱いしていた者や同等視していた者たちが今度は「国家の誇り」などと言いだすから始末が悪い。そもそも個人の研究の成果などは国家などとはまったく関係ない。況んや企業とも、日本人として誇りに思うなどという人々とも質そのもの、構成要素自体がまったく違うのである。何でもかんでもすぐに都合よく勘違いする(同体化する)身の程知らずな者たちでは自分が持って行かれる方向さえも気が付かないのは道理である。

 ともあれ、中村教授のようなノーベル賞受賞者が現れたことは今までにはなかったことで若き研究者の今後の指針となることは間違いないだろう。再び付け加えるが、日本ではどのようなことを言っても「文化的営為」を育むような精神構造そのものが根本的に欠如しているので今後も自由に研究活動ができるなどということはどの分野でも決してあり得ないと思われる。小手先の詭弁に騙されては時間を無駄にするだけである。日本の「枠」に囚われていては何も為し得ないことはこれからも変わることはないだろう。

                                            2014 10/10

※後日、この中村教授の言動には落胆させられた。それについてはまた別のところでも書かざるを得なくなったので取り上げた(443)。他の受賞者については然もありなんと言う程度で敢えて書く必要もあるまい。

 


436.タナトスの増殖と「自爆」


 死んだ表皮のような言葉も環境が整うとバクテリアのように活動を開始する。たとえ空疎な言葉を乱用しているだけであると見えてもそれにエロスと同様にタナトスが絡んでくると異様な「残光」を放ち始める。最近の事象を見ているとタナトスの意のままに動かされ、その隷属と化したような姿が多く見られる。タナトスは滑り込む瞬間を巧妙に作り出し僅かな間隙を縫って増殖を繰り返し、遂にはコントロールが
効かないほどにその人間を支配下に置き破滅に導く。放置されたタナトスが自然消滅することはない。それはさらなる増殖の機会とはけ口を窺っているだけで、いつ噴出してくるかは定かではない。「切れる」などということも要するにキャパシティのないことの証拠でもあるが、それは同時にタナトスの恰好の猟場でもある。餌はもちろん「憎悪」である。たわいもない対象に容易く「憎悪」が収斂していく様相はすでに巷間においても枚挙に暇がない事象となってしまった。「タナトスは自らに身を委ねたいかなる者にも暫しの間「何か」をやっているという充足感を与える。それはエロスの手口と同様である。しかし、どのような経路をとってもタナトスはそれが成り立ち得る負の無限連鎖をその指向性として持つ内的構成要素そのものから必然的にそれに身を任せた者の「自爆」をもって消失・完結する。しかし、エロスに身を捧げている者が正常で、タナトスを感じるものが異常なのではない。それほど単純なことでもない。タナトスは誰にでもあり得るが多くは水面下で水面の泡立ちでそれと知れる程度であるということに過ぎないということである。だから怖いのである。多くの者の中に水面下の泡立ちに気を取られ過ぎてわざわざ潜ってタナトスの開口部を押し広げ、それに酔い痴れる者がいればそのような者たちが周辺の者たちのタナトスを活性化させてしまうのである。「憎悪」を駆り立てるいかなる言動もタナトスを呼び起こし、行くつく先は自滅以外にはあり得ないというのが順当な摂理である。そこから逃れる術は完全に閉ざされている。

                                                   2014 10/5


435.すべては「キッチュ」


 「キッチュ」とはドイツ語本来の意味では「まがいもの」、「俗悪」ということであるが、70年代から日本でも今までの価値基準の「揺れ」の中で「キッチュ」に独特な価値基準を置くようにもなった。しかし、現在のようにすべてが「キッチュ」ではないかと見間違うほどに「キッチュ」が溢れかえっている状況の中では「キッチュ」はただ見苦しく、面白味もない、むしろ不快感しか残さない浮遊する表皮程度のものにしか見えない。

 現に、「表舞台」に立つ者の言動が浮遊する表皮以上のものではないことは日々証明されていることでもある。「表舞台」とは「キッチュ」が一番似合うのではないかとさえ思える時がある。それは形態模写の域を決して出ることのない三文役者のような存在である。「キッチュ」には深化などありようもなく、一方では深化を拒否したところにその存在意義を見出そうとしてきたのであるが、もはやその作為自体が滑稽なほどに無意味なものとなっている。無意味なものがその存在をいくら形作ったとしても、声も形状も鮮明ではなくその実態はイルージョンとしても像を結ばないのである。やがて「キッチュ」そのものとして、作為的な意味づけは削ぎ落とされ本来の単なる「キッチュ」として闇に消えていくのであろう。

 「キッチュ」はどのように捉えようと「キッチュ」なのである。それは否定されるべきものでしかない。たとえ、それが既成価値基準の「揺れ」の中で生じ、「周縁」からのエネルギーを吸収し得たものであったにしても、それは飽くまで瞬時の「徒花」で、やがてはにせもの独特の悪臭を放ち始める。

 「キッチュ」は「キッチュ」に寄り添い、同意を求め、抱き込もうとするが「キッチュ」自体が持つ構造的欠陥によってやがては内的崩壊を余儀なくされるが、「キッチュ」は「真摯さ」から乖離する、乖離させるという意味でも罪作りなのである。

 「キッチュ」などでは到底太刀打ちできないのが、自然災害であり、原発でもある。それは人間ごときがたとえ全身全霊をかけて向き合っても勝ち目のない相手である。それらの災害、事故などが今後も頻発するであろうことは「素人目」にも明らかである以上、「キッチュ」の領域は今後次第に間隙に押しやられることは想像に難くない。

 

                                                   2014 10/2

 


 

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