〇異常な金融緩和ということについては、2016年に「異常な金融緩和というシャブ漬けで衰弱死してしまう」と経済学者の金子勝は言っている。(以前このサイトでも取り上げた)あれから7年、2023年プリンストン大学の清滝信宏教授が単刀直入に「緩和はさっさと解除しろ」と植田日銀総裁に迫った。それについて「空気を読まない直言のヤバイ中身」などと報じていたが、真剣勝負の場で空気を読んでばかりでは埒が明かない。もはや、記者会見など存在しない状態で、垂れ流し状態。今回も、植田がモゴモゴと埒もないことを言っただけ。総じて、堕落の極北にいるマスメディアも異様に無様である。地上波とは「痴情波」と見るなら大方のところ合点がいくが、少なくとも、私はそれすら拒否する。
2023 9/23
〇怪しげな発言を繰り返す「WHO」については、見識のある者なら距離を置き、その発信を鵜呑みにする者はいないだろうと思われるが、ビルゲイツ財団との深い関りすら知らない者もいたようだ。「WHO」に代わり得るものが早く出てこないものかと思っていたが、現れた、「WCH」である。この組織は「WHO」のような商業主義的な偽善組織ではない。誠実な関りが期待できる組織である。そして、ワクチンについては、「一般社団法人ワクチン問題研究会」というのができた。ここが発信するワクチン情報は今までにない正確さと確実性を持っている。しかし、残念ながら、大本営発表しか垂れ流さない新聞、テレビからでは得られない情報である。今や地上波で流される情報は一部を除いて一番ファクトチェックが必要な情報となっている。このサイトでも十年ほど前から何度となく言っていることであるが、政府広報でしかないテレビ、新聞などに頼っていたら首が幾つあっても足りなくなるということである。この実情はかなり危機的状況であるということをどれほど者がわかっているか気がかりなところでもある。自主規制という罠にまんまとはまったメディアもいつそこから抜け出せるか、それも大きな問題となってしまったが、それができない限り、先へは進めないことは確実なのである。政府に囲われたようなメディア、あるいは有名無名の有象無象がいくらもっともらしいことを言ってみても、それは欺瞞の領域から一歩たりとも出ないのである。
2023 9/11
〇夏の風物詩も地に堕ちたものだ。「びわ湖大花火大会」ー「子供たちの夢、平和への祈りなどの思いを込め、人と人との絆や希望が感じられる云々」このような美辞麗句は、もうすでに散々聞かされた妄語に過ぎない。実際、この花火大会では4メートルの目隠しフェンスが設置され、まさに「分断」されていた。ここまでくると、野暮、無粋のレベルではなく、人間としての精神構造そのものが劣化しているとしかいいようがないものがある。フェンスで仕切られたファーストクラス並みの特別席で観る者と、フェンスの隙間から観る者と・・・こんな風情も何もない、さもしいタコ花火に現を抜かすより、星空を眺めていた方がどれだけ趣もあり楽しいことか。
一方、東池袋公園では、炊出しに並ぶ若者で公園内は一杯となったそうである。その国の若者の食事をみればその国の未来はわかるというのはやはり本当であろう。実情は古代ローマ時代の奴隷以下の生活を強いられているのである。「通貨価値で換算すると、派遣社員は古代ローマの奴隷より安く使われている」ということである。それでも異様におとなしく、飼い慣らされているのは、既得権益側の術中には完全にはまっているか、埋め込まれた奴隷根性に食い荒らされ、惰眠への誘惑に勝てない者となってしまったからなのか。フェンス越しに花火をみながら、将来の夢は「上級奴隷」とは・・・。
こんな取って付けたようなタコ花火に4メートルのフェンスを作り、区分け、制限する、どこに「子供たちの夢」、「平和への祈り」があるのか?また一方では、炊出しに長蛇の列をつくる、ここは本当に日本なのかと思われる光景である。メディアが取り上げ、編集する「美しい」「日本」の映像の多くは、もはや虚妄といったほうがいいだろう。
2023 8/14
〇「死者に鞭打つ」とは、最近またよくみる言葉でもある。それだけそのような表現を遣いやすい出来事が多かったせいもあろうが、その遣われ方をみていると、正当な批判すらも、誹謗中傷の類と同一化し、矮小化しようとする動きと波長を合わせたような、暗黙の口封じのようにみえる。それは語源が示すとおり、故人の墓を暴いてまでも鞭打ち仇を報いるという行為の過剰さ、異常さからもきているのだろうが、その意味合いは徐々に敷衍されつつ変質してしまっている。一般的には、故人についての批判はするのも野暮で、そっとしておいてやれよというというような具合になっている。それが一般人であれば、それで済まされる場合もあろうが、広範囲に影響を与え、罪の比重が一通りでない者に対しては、そういうことでは済まされない。それでは一体どのような宗教観、世界観でそのようなことになるのか、少なくとも、真の仏教者であれば、墓(死者)などのことは心配はせず、「生きる」ことに集中せよというであろう。すなわち、「生」そのものに重きをおき、「死者に鞭打つ」こと自体がありえない、絶対に不可能なこととして、そこには存在しないものに対する行為として捉えられている。そして、よりよく生きるためには、死者をも乗り越えよと諭すであろう。乗り越えるためにはどうするか、そこでは、「批判」と同時にそれに準じた「行為」も必要となり問題となる。故人に対する批判的言説ということだけで、もっともらしく「死者に鞭打つ」行為などとしたり顔で言っているようでは過去からも、歴史からも何一つ学ぶことはできないということである。
2023 7/24
〇大谷翔平については、このサイトでも何度か取り上げたが、今でも彼の活躍について「漫画的」という表現をつかう日本サイドの、貧相な言葉遣いに危機感を覚える。因みに、ドジャースのフレディ・フリーマンは、大谷翔平について取材をうけると、「(彼は)本質的には理解できない。アメージングだ。ファンとして見ていて楽しい。」と語った。実に素直で明解な表現である。日本の野球関係者で、これに相当する、あるいは似ている表現などはどこにも見当たらない。これだけのことで、その意識構造、今後の展開具合が見えてしまうから怖い。
オワコングループが意地でも認めないことに振り回され、その現状に流されているだけでは新たな展開は完全に閉ざされている。日本では「奇跡」は起こりえない。その土壌すらない。彼にとって、日本人であるかどうかなど二義的なことに過ぎないのである。実際、周りの者たちも彼が日本人であるかどうかなどは吹っ飛んでいるであろう。大谷翔平というたまたま日本人であった「野球そのものになった」「人間」に接し、楽しんでいるのである。そんな人間にホームランの度に兜をかぶせる。単なる異国趣味というレベルで結び付けられた「サムライ」などとという空疎な概念と兜、彼本来の自由な表現を阻害する要因にもなり、妙に違和感以上のものを感じる。
日本の野球?つまらないの一言。今後もますます後退の一途であろう。
2023 7/13
〇某作家が、真理を求めるなどということより、ストリッパーの方がよほど多くのことを語り得るというようなことを書いていたが、この作家自身も小出しストリップをかなり以前から始めているので、然もありなんであるが、陳腐である。やはり、すべてが風俗(世俗、習俗)で、それ以上では決してなく、そのまま流されているのであろう。その流れに寄り添うことでしか成り立たない生業で、言い換えれば、徹頭徹尾売れてナンボの世界なのである。「いい商品は売れるはずだ」などという思い込みもないが、「売れるものがいい商品」だとは決して思わない。それは商人の価値基準以上のものではない。商人の価値基準が「賢さ」「質」の基準値を作り上げているのであれば、それを敢えて美辞で飾りたて、言い換え敷衍すべきものでもあるまい。実際、身の回りのもの(食品なども含め)でも、「いいもの」「良質」なものがいつの間にか消えてしまっているのも実情である。ほんとうによければ、また返り咲くこともあろう。確かに、量は質にも転化し得るが、質の価値基準は時間で変質もするのである。
2023 7/7
〇己に酔いしれし者の曰く「真の愛国者、美しき豊葦原1500秋瑞穂の国に生き育ち、やがて示寂する 誇りに生きる。」示寂とは恐れ入る、さぞかし貴いお方なのであろう。実態は、恐ろしいほどの想像力の貧困さと、観念と意識の過剰なまでの膨張で、救いようがない状態と言った方が適切である。
実際に、民度なども先進国レベルとはおこがましく、世界的には120位程度であろう。要するに、根幹の意識構造が展開不能の「カルト構造」なのである。
酔い過ぎて、階段で、足を踏み外さぬよう気を付けるべきである。
2023 6/27
〇「現場は凍り付いた!」というから何かと思えば、植田日銀総裁にプリンストン大学の清滝信宏教授が「嚙みついた」という、それも「空気をよまない直言のやばい中身」とくる。こんなことを何かありげに吹いているからダメなのである。要するに、清滝教授は、「緩和は、さっさと解除しろ」といっているのである。会議、議論などは真っ向から対立する見解があって当然、そこで火花を散らすようなぶつかりがあってはじめて、そこから見えてくるものもあろうかというくらいである。国会、委員会等々をみていると、多数頼みの強行採決ばかり、わかった振りなど必要ない、空気など読む必要もない、凍り付くような直言を国民は期待しているのである。それは、もちろんきちんとした知見とセオリーを持った直言ということである。
2023 6/16
〇広島G7 記念撮影だけはよくできた。しかし、そこに参加した各国首脳の誰一人本当に広島に向き合うことはできなかった。実際、原爆資料館でも見るべきものも見ていないし、見せようともしなかった。広島出身を「売り」にしてきた者の全体像が気味が悪いほど鮮やかに見えただけである。それについての、さまざまな口実、弁解、講釈は言うだけ虚しい。やはり、平和とは戦争、戦争とは平和ということか、しかし、そこには根本的な、尚且つ決定的な瑕疵があり、無能の証でしかないということは百万言を費やしても覆せない。
※後日、カナダのトルドー首相は、G7広島滞在中、再度広島資料館を訪れたことがわかった。立派である。(6/8)
2023 5/30
〇百鬼夜行、文壇を知るまでは絵空事だと思っていたとは某作家の言。冗談半分とはいえ、半分以上本気であろう。文壇のみならず、政界は言うに及ばず、芸能界も含めて「○○界」と称するところは総じて百鬼夜行の様相を呈しているものである。そもそも、「百鬼夜行」自体は知る人ぞ知るで済まされることでもなく、やがては尻尾を出し、つかまれ引きずり出されて解体、分析されるはずだが、多くは、トカゲの尻尾のようなものに踊らされ、それに終始するだけになる。現在では「百鬼」もさらにスマートに進化をとげて、あらゆる技術、情報を駆使して、尻尾を本体のように見せかけているようである。
チャットGPTなども、所詮、膨大な既存データの寄せ集め、スマートにやっている「ふり」はお手の物であろうが、何かの拍子に、今までさんざん見せられた「ウソ」と「ふり」ばかりということにもなりかねない。ヤバイとなれば「所轄外」、「次の質問」の連続、「ブロック」、突然、眼鏡をかけたコオロギ出てきて点滅し、「緊急停止」ということにもなろう。そう、チャットGPTの「前身」はもうすでに見飽きているのである。この危うい違和感、かび臭いデジャビュである。
2023 5/20
〇某フリーランスのライターが、「最近の記者は腰抜けだ、職責を果たしていないと非難するのは簡単です。そういう声はSNSなどにあふれているが、読者、視聴者がどんどん減り、経営が厳しくなる中、世論の反発を恐れざるを得ない状況もある云々」などとTwitterでいっていたが、まず、こんな通り一遍の捉え方をしているようでは、やはり先はない。読者、視聴者が減ったのは、要するに面白くないからなのである。どうしてそうなったかを考えるべきである。経営陣が政権担当者と会食しているようではすべては推して知るべしなのである。政権の圧力を先取りして何でもかんでも自主規制では「面白くなくなる」のは当然である。「世論の反発を恐れる」といっているが、それは政権の監視と恫喝を恐れるあまりであろう。もし本当に「世論」というのなら、どのような筋の世論かと聞きたくなる。例の集団抗議する集団か?
2023 5/9
〇「統一教会」の元弁護士・高村正彦は、森内閣で法務大臣、第一次安倍内閣で防衛大臣、福田内閣で外務大臣、第二次安倍内閣で自民党副総裁を歴任し、現在は自民党憲法改正推進本部の最高顧問である。この事実を明確に押さえない限り先へ進めないのである。25年前、中村敦夫参議院議員が国会で追及した時から一歩たりとも進んでいないどころか後退し続けていたのである。当時、「安倍政権は高速道路を逆走している」と中村は警鐘を鳴らしたが、案の定、「事故」は起きたが、今なお逆走し続けているのである。ただ、その逆走の具合が多くの者にも少しは具体的に見えてきたということであろう。しかし、今後もまた、前にも増して様々な目くらましを投げつけてくることは間違いないということである。この目くらましには笑気ガスも含まれているとみえて、ナルシスト、傷ついた虚栄心に満ち溢れた御仁たちがやたらと彷徨っている。因みに、傷ついた虚栄心ほど、最も始末の悪い力を持っている。それは諸悪の根源であると某哲学者も言っている。
最近の情報では、統一教会の機関誌は「世界日報」から「Hanada」に移ったのではないという説もある。それは、ちょっと見れば、すぐに頷けることでもある。しかし、今更、言わずもがなであろうと思われる。
2023 4/26
〇選挙報道を見ていて、思うことはいつもと変わりない。飼いならされたと言うべきか、去勢されたと言うべきか、多くの庶民は首に縄をつけられ引きずり回されているにもかかわらず、薄ら笑いさえ浮かべながら「3S」などに現を抜かし、詐欺そのもののような美辞麗句に、むしろ騙されたいと言わんばかりの恭順さである。言ってみれば、典型的な自己陶酔型怯懦である。「情報弱者」とはメディアの責任でもあるが、たとえ、事実をそのまま伝えても、都合のいいようにバイアスをかけようとするものは必ず出てくる。事実そのものの検証もさる事ながら、バイアスそのものの検証も必要であろう。それは左翼、右翼などという拙劣なレベルの検証ではない。事実、事象そのものの検証に伴うバイアス(歪み)の検証である。正確な「歪み」の検証は、必ず「歪み」本体の欺瞞を暴き出す。
2023 4/13
後日の選挙結果は周知の通り、自民党と別動隊がいかにビジネスカルトなどと抜き差しならぬ関係にあるかを証明したようなもので、たとえ今後、そのビジネスカルトに解散命令が出されたとしても、どのように地下活動するかさえ物語っている。もはや自分の手足、五臓六腑となってしまったものを解体することはできまい。
問題は、言っていることではなく、やったこと、やっていること、やろうとしていることだけである。そのすべてにおいて大問題なのが、現在の政権、及びその補完組織である。今回も金の流れが手に取るようにわかった。頭隠して尻隠さず、ついその尻を叩きたくもなる。追及の手を止めた時が真の敗北。 (2023 4/24)
〇先日、久しぶりに友人から電話があった。電話口に出ると開口一番、「生きていたか?」と言う。「まあ、何とか」と言うもまもなく、「君のサイトを見ようとYahooで検索すると、中京テレビのアナウンサーらしい『平山雅』という女のアナウンサーに関することで埋め尽くされていたから、ハハーン、これはまたやられたかと思ったが、もしかしたら、本人がいなくなったからじゃないかと思ったわけ、元気ならいいんだ。しかし、そのアナウンサーの「身長」、「子供」、「結婚式」、「大学」、そんなのどうでもいいことだろうと思うが、どこもバラエティー番組並みだな。テレビなんかは、もうすべてバラエティー化で、やっぱり、一億総愚民化政策と言わざるを得ないよな、いや元気ならいいんだ、また連絡するよ」。電話の後、改めて自分のサイトを見ようとすると、自分の同姓異名ばかり、私の嫌いなFBを見ると、同姓同名は30人くらいいるようだ。今更、名前を変えてもどうなるものでもあるまい。しばらくは「分身の術」を楽しむことにする。確かに、肝心な音(事)は拾えないように、周りの音のレベルを調整しているのはよくわかる。これではボーッとしてたらすぐに認知不能障害、白痴化の影響が出て、自分の首が絞められているのも気が付かないことになるだろう。
2023 4/5
〇罵詈讒謗をする者は、やはり、まず言葉そのものがただでは置かないのである。どのような言葉が使用頻度が高いかにもよるが、邪で偽りが多ければ多い程、言葉そのものは思考回路の深部にまで侵入して増殖して思考回路そのものを変形、あるいは破壊するということである。すなわち、言葉そのものによって、人格破壊を余儀なくされてしまうことにもなるということである。自分では、言葉を巧みに操っているつもりでも、その実情は、言葉に操られているのである。その言葉がよこしまなものであれば、自分が想像する以上に思考回路全体が複雑に手に負えない程歪められてしまっているということである。サイコパスなどもいい例であるが、言語の復讐は想像を絶するものがあることを知るべきである。
2023 3/24
〇「死と生」というエゴン・シーレの絵に黒い塗料をかけた「環境活動家」と称する者がいたが、彼もまた「生きながら死んでいる」のであろう。エゴン・シーレが「あらゆる者は生きながら死んでいる」という時、その直観は正鵠を得ている。我々は生きているつもり、何かしているつもりになっているが、その実、生きながら死んでいるということである。
某テレビ局で、エゴン・シーレを取り上げていたが、案の定、内容は通俗的でつまらないものであった。「あらゆる者は生きながら死んでいる」という彼の言葉まで遣ってテーマにしているようであったが、構成、持って行き方が軽すぎた。こういうものはテレビのディレクター、プロデューサーレベルでは土台無理な話で、それなりの世界観を持った映画監督レベルでないと扱いきれない。もし「自主規制」が習い性となってしまったのなら、それは作り手にとっては「生きながら死んでいる」証明にしかならない。ふと、以前書いた戯曲の台詞が浮かんだ、「なんか変ね、生きている実感が消えてしまった、死んでいるみたいな感じ」「えっ?大丈夫ですか?我々は、もう死んでいるんですよ、」「えっ!死んでる?」「ははっ、わかっているとばかり思っていました、道理で・・・なんかおかしいなと思った・・・」
たまに、息継ぎをするために水面に顔を出す程度では、とても「人間」が生きていることにはならない。
「神は死んだ」といわれ、「『人間』は死んだ」ともいわれる時代の真っ只中にいる中で、「あらゆる者は、生きながら死んでいる」のである。だから、大谷翔平の見事なホームランに対して、海外の記者が思わず賞賛の言葉として「エイリアン」などという言葉を遣ってしまうのである。既成の「人間」のコンセプトではもはや捉え切れなくなっているのである。おそらく、エゴン・シーレも大谷の一挙手一投足に興味をしめし、生きながら死んでいる者以外の何かを見ただろう。
2023 3/12
〇最近よく見る風景に、路傍に点在するいくつもの「馬脚」、サルオガセと見間違ういくつもの「化けの皮」がある。よく見れば、烙印と日付まで付いている。
情報操作しながら、強制する管理体制を作り上げてしまった任意のワクチン接種。任意とは自己責任で、補償はしないということである。そして、インボイス制度、これで第一次産業従事者から文化従事者まで廃業に追い込まれ、一番大事な領域が壊滅する可能性も出てきた。そうでなくともこの領域の衰退は危機的な状態なのである。それにもかかわらず、一番非生産的な(自らは何も作り出さない)金勘定ばかり巧みな者たちが潤う仕組みは依然としてそのままである。これではやがて根幹部分から崩壊するしかあるまい。後は野となれ山となれ、仮定のことは言えない御仁たちの「未来図」などはあり得ないことである。現状は、DEMOCRACYは機能せずPOWERCRASYであることを肝に銘ずるべきである。この延長線上に「改憲」である。すなわち、大なり小なり追及し続けなければ、各自の生存の道は危うくなるということである。無関心はもはや論外、従順であったにしても、やがては排除され、切り捨てられるということである。
2023 3/7
追記:2016年安倍政権下で総務大臣だった高市が、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返せば、電波停止を命じる可能性があると発言したことは世界がすでに周知していることでもある。その結果、報道の自由という民主主義の観点、成熟度から見ても大きな問題となる事項に関して、180カ国中72位(2022年時点で71位)となり、タンザニアより低いと見なされているということである。とても先進国などといえるレベルにはないことを今改めて確認しておく必要がある。要するに、先進国からは、相変わらず「民主主義の理解度は小学生並み」と思われているのである。この自己認識と世界の認識との格差は一体どこからくるのか?これは論理の世界とは全く異質の民族宗教のレベルの領域が深く関わっていると思われる。愚かしいと思われるタリバンの行為、その他の独裁国家と実は多くの類似点を持っていることを忘れるべきではない。自らは先進国のつもりでも、やっていることは反民主主義的な愚かしい独裁国家ということになるのである。
要するに、「民度」もタンザニアレベル以下と見なされているのである。いつとはなしに民族宗教の領域につかり、沈黙は金、雉も鳴かずば撃たれまい、何も言わぬ、聞かない、見ない、猿のような生き方が是と心得ている民はやがて朝三暮四で騙され絡め取られる。そして、さしたる根拠もないのに日本人であることだけで全能感に浸って為すべきこともしなければ、かくもありなんで、ますます取り残されるということである。(3/8-9)
因みに、「見ざる、聞かざる、言わざる」は必然的に認知症を誘発し、促進させると思われる。すでに目が死んでいる。
〇2023年3月2日、山本太郎の国会質疑は実に明快な的を得たもので、国会質疑とはかくあるべきというレベルを遥かに超えて超絶的なものであった。並みの者に真似せよといっても土台無理な話ではあるが、少なくとも国会の場で火花を散らすくらいの議論がなされなくてどうするのか。国会は「談合会場」、馴れ合い、「秋波」確認の場でもアリバイ工作の場でもない、厳しい追及の場である。すべてが、国民の命に関わっていることであるから、それは至極当然のことなのである。
〇「はだしのゲン」の削除、これもまた日本の文化衰退の恰好の証左の一つである。広島市教育委員会、校長、大学教授のレベルもこんなところであろう。「表現も古く、わかりづらい」これで通ると思っている教育関係者とは、不可解。また怪しげなビジネスカルトが教育勅語を片手に歩き回っているのか?その草の根、根回しの結果と思われても仕方あるまい。この「はだしのゲン」は周知の通り世界24か国で翻訳もされ共通認識の一つにもなっている。その内に、外国人に「はだしのゲン」について聞かれることにもなろう。文化レベルの問題は、目には見えないがすべてが核心部分に接触しているので、それですべてが見透かされてしまうことにもなる。改憲にしても然り、未だに三文雑誌の聞きかじり程度の知識でGHQに対峙していい気になっているオッサンたちがいるが、今、一番改憲を望んでいるのは実は米国であることがまったく見えていない。皮肉にも、世界に誇れる「平和憲法」を手にしたにもかかわらず、その活用もままならぬまま、言うに事欠いて「古い」ところは変更し、「新しい」「憲法」作りとくる。それは米国にとってさらに都合のいい「新しい」「憲法」作りなのである。またそこにうまく入り込もうとしている、あるいはすでに入り込んでいるのが例のビジネス「反日」カルトである。やがて、G7から外されることがあっても、何の不思議もないのが現状である。この文化も含めた退化現象を見ていると、それも止むを得ないと思われる。
2023 2/25
〇スウィフトの「Yahoo」とは、人間の姿をした理性も言葉も持たぬ醜悪な生き物のことである。昨今では、言葉らしきものは持っているが、その遣い方で理性などほとんどないに等しいと思われる人間の姿をした「Yahoo」をよく見かけることがある。「Yahoo」の変種なのか、そのものなのか、どちらにしても、「人間」を再構築をするつもりなら、スウィフトと共にこの「Yahoo」とは戦い続けるしかあるまい。
〇「地獄に落ちる」?ここが地獄なのである。「地獄とは他者である」とサルトルも言っている通りである。そして、天国なども想定しなくては生者が生きづらいだけの話で、死者とはまったく関係なく、死んだらそれまでなのである。
2023 2/13
〇やはり、自民党にはスーパー超異次元の対策が必要であろう。何から何まで言ったまでの話である。保身の自意識ばかりでは変わりようがあるまい。G7にしても、文化レベルも衰微、後退の一途をたどっている国が、先進7か国?何ともおこがましい限りで、こちらまで恥ずかしくなる。せっかくいいものを持っているというのに、文化レベルの底なしの失墜は止まらない。これらはすべて自民党の責任であるという自覚がまったく無いところが、悲劇的でもある。現状そのものが、そのすべてを物語っているであろう。社会の脆弱性の指標でもある弱者排除、切り捨て、放置は日常茶飯事、「高齢者は集団自決すべき」などと言って憚らない者までが平然とメディアに登場、それに倣えとばかりにSNSでは、回転ずしのガキの所業のようなことを100デシベル超える騒音とともに飽きもせずツイートしている者もいる。底の見えない堕落とはこうしたものなのであろう。いくつ底が抜ければ止まるのか、行き着くところまで堕ちるしかないのかもしれない。
2023 2/8
〇「育休中のリスキリングの『後押し』」?現場、実情を知らない者たちが体裁のいい言葉を遣って作文しているのであるから、批判が噴出するのも当然である。リスキリング(Re-skilling)は、コンテクストを加味すれば、逆にリキリング(Reーkilling)に聞こえてしまうから怖い。そうでなくとも、コンテクストそのものが否応なくkillingを炙り出しているともいえる。これもまた、一事が万事である。一見スマートな言葉に乗せられ酔っていると,いつの間にかリキリング(Re-killing)を後押しされているということにもなる。もはや、政治不信だとか無関心だのと甘ったれたことを言っている場合ではない。
2023 2/3
〇猫も杓子も、まるで選挙ポスターのようにネット上に自分の顔写真をべたべた貼って、ひとり悦に入っている様子。それだけでお里は知れるのであるが、「一億総白痴化」は必然的に一億総タレント化を呼び込み、特に准教授レベルは小遣い稼ぎも兼ねて、やたらとメディアに登場し、タレント化する。「大方」の「言論人」なる者も実質的に自分が利する「世論作り」に貢献し、結果的には利用されているだけということになる。その「世論作り」も問題の多い政権のためのものなのか、それとも多くの国民のためのものなのか峻別しないと、「こんなはずではなかった」ということの繰り返しになる。我々は、すでに教師、裁判官、国家自体すらが虚言の根源となっていることを知っているはずなのである。もし、ゴチャゴチャしていてわからなくなったら、「ほんとうのこと」を知ろうとすればいいだけのこと。なぜ?どうして?こうした問いかけ、追及それ自体が多くの国民に残された唯一の「力」なのである。わかった振りは一番危険。今でも、「批判ばかりしていても」などというコントロールされた「見解」に乗せられた人々がいるが、主権者である国民は問いかけ、追及、批判するだけで充分なのである。本当の分別は必要だが、妙に分別臭くなったらすでに、相手の手の内である。いいカモになるか、「悪い」カモになるか思案のしどころである。
「批判ばかりしてないで対案を出せ」だって、ふざけるな、それじゃ駄目だと言っているのだから、考え直せばいいのである。税金で食っている者が、「主人」に対して、「対案を出せ」って、君たちは一体何のために、誰のためにいるのか?冗談は顔だけにしてくれと言いたくなる。
※「大方」:飽くまで大方で、そうでない方もいるということである。
2023 1/28