55.日本の「コピペ」文化

 日本の大学生の卒業論文、大学院生の修士論文などの多くは引用、孫引きで構成されていると言ってもよい。しかしそこには出典が明確に記されているはずである。それで指導教授もよくぞこれだけ読み、構成したとばかりに評価するのが一般的で、多くはその程度である。しかし、他者の言説、表現をそのまま自分の言葉として遣うことは剽窃であることはいうまでもなく、それ以上に問題も多い。最近では剽窃自体に意義すら見い出しているのではないのか、詐欺行為でしかないことに対しても何ら罪悪感も持たずむしろそのtrickの巧妙の度合いに自ら酔い痴れているのではないかとさえ思える節があるからである。「健全」に他者の言説、表現を切り取り「コピー」してあたかも自分が作り出した言説、表現として「貼り付け」構成して提出する。そのようなことが成り立ち得るのなら、すべてはFake,似て非なるもの、ニセモノであるということになる。しかし、実際にはそのような現状が否定しようもなくあり、それがまかり通っているのも実情である。私は以前にも、現状の日本の文化について「ニセモノ文化」と言ったことがあるが具体的にはこの「コピペ」という行為も含めてのことである。言ってみれば、そこにあるのは「要領」、すなわち「小細工」以外には何もないということである。身についていないものはやがて乖離し、剥離する。そんなわかりきったことがわからなくなっているのである。あっちこっちの「他者の血」で合成された血液型も不明なニセモノ、よく見ればわかるであろうその継ぎ接ぎだらけの「姿」、ただ気の利いた耳目を引くようなことを言っているだけのメッキで形作られた、やがて動的な様相の中で一瞬にして溶解するヒト型である。ニセモノに慣らされてしまった者達が奏でる不協和音がすでに基底部分で出来上がってしまっている以上如何ともしがたいものがあるが、「ニセモノ文化」の中では現実的にも、「もの」は見えず、聞けども届かずといったところではないかと思っている。現に小さな文明の利器を片時も離せない人々の不自由な様は、一頃のカメラを離せない日本人と重なるが、それ以上に意識レベルは後退していると思われる。ほんとうに取捨選択できない者たちが、すなわち分析能力も養われていない者同士が皮相なレベルで右往左往しているというのが現状であろう。ニセモノとは肝心なことは何も見えていない、また見ようともしない者たちのことでもある。当然、ニセモノの数の方が本物の数より遥かに多いのであるから大衆「迎合」路線でなされるすべての文化的営為とは必然的にニセモノ文化に寄与することとなる。

 

                                                  2014 3/13

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